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『ヨコハマ買い出し紀行』 [Book]


ヨコハマ買い出し紀行 1 新装版 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 1 新装版 (アフタヌーンKC)

  • 作者: 芦奈野 ひとし
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/10/23
  • メディア: コミック


3.11の震災で僕は直接の被災はしなかったのですが、心の揺れは予想以上に大きく、僕なりのショックと不安で情けないことに半月以上無気力になってしまい、本を読む気が失せてしまいました。ですが唯一このマンガ、芦奈野ひとしの『ヨコハマ買い出し紀行』だけは不思議と読めました。

過去に通読したのは一度。毎晩寝る前のベッドの仄暗い読書灯で2~3エピソードずつ読んで、静かな深い感動とともに読み終えるころには、心がだいぶ落ち着きを取り戻してきました。「癒される」という言葉はあまり好きじゃないのだけれど、「日常ファンタジー」とでも言うべきこの穏やかで、じんわりと人の魂を慰撫するような作品を「こんなとき」に読んだことは、生涯忘れないだろうと思います。

ご存じのない方は手にとってほしいと思います。

いつはじまってもいいようないつ終わってもいいような起伏に欠けた物語ですが、人間のつつましやかな暮らしの繰返しのなかで起こるささやかな喜びをみつめ、今ここにある日々というものがほんとうは奇跡なんだと愛し慈しむようなまなざしを、一人でも多くの人が、少しでもつよく持ってくれればいいな、と思います。
空や風、水、季節、雨、雨上がり、水たまり、深い草、そうした自然の風物のきらめきを感じることができて、身近の親しい愛する存在たちとお互いの気持がやんわりと通じ合っていれば、世界がいかに絶望に近づいても、希望をもって生きられるのではないか、と、いい年をして何アタリマエのことのたまってるんだ?と言われそうですが、今回改めて読んで思いました。続いていくはずの日常が大きな力によって揺らいで亀裂が走ったりして、目に見える風景に翳りができたとしても、大切なものは何一つ変わらないのだと確信できる、そんなふうに思わされました。


wikipediaより解説の抜粋。

『ヨコハマ買い出し紀行』(ヨコハマかいだしきこう)は、芦奈野ひとしによる日本の漫画作品。『月刊アフタヌーン』(講談社)において1994年から2006年まで連載された。単行本全14巻、新装版全10巻。

「お祭りのようだった世の中」がゆっくりと落ち着き、のちに「夕凪の時代」と呼ばれる近未来の日本(主に三浦半島を中心とした関東地方)を舞台に、「ロボットの人」である主人公初瀬野アルファとその周囲の人々の織りなす「てろてろ」とした時間を描いた作品。

作中の社会状況は、明言はされていないが、断片的な記述を総合すると、地球温暖化が進んで海面上昇が続き、物資は欠乏(米などの生活必需品も入手困難)、治安は現在よりも悪化(来客への応対時や配達時に護身のため鉄砲を携帯)、人口が激減したことなどが示されている。総じて、人類の文明社会が徐々に衰退し滅びに向かっていることが示唆されている。

しかし、その世界に悲壮感はなく、人々はむしろ平穏に満ちた日々を暮らしている。また、詳しくは語られない正体不明の存在も多く、そのまま作中の日常世界に組み込まれている。これらの不思議については作中で真相が明かされることはなく、どう解釈するかは読者に任されている。

なお原作終了後に刊行された小説版(著:香月照葉)では、「夕凪の時代」の後に人口はさらに減少を続け、ほぼ滅亡状態となった「人の夜」を迎えた、としている。
各話は、登場人物の私的な日常を軸に展開し、また「ロボットの人」たちが周囲から、「ロボットという事は個性のひとつ」として受け入れられて生活している様子をとらえている。


主人公は、あるいはロボットたちは、「滅んでゆく人間」を記憶する存在だと僕は解釈する。人工の存在が、人間がいなくなったあとも「人間がいたこと」を語り継いでいくんだろう、と確信させられる。愛もあれば感性も豊かなロボットは、やがて世界の水没に伴い人間が滅んでゆくことを知っているから大いなる慈しみでもって人間をやさしくみつめているし、やがて自分たちが滅んでゆくことを知っている人間たちは、ゆるやかな絶望のなかで同時に何か突き抜けたような希望を持ってもいる。設定は暗いのだけど、たそがれ時の美しさのようなせつない明るさが作中に満ちていて、その空気感を楽しめることができれば、この作品は生涯にわたっての大切な作品になると思う。

作中、(大きく減少した)人間の住んでいた場所で、「場所それ自体」が、ここに「人間のいたこと」を特定の自然現象として誕生させている。かつて道のあった場所に、ぼんやりと光る街灯型の丈の長い植物が群生したり、海を見つめる高台に生えて海の方角をみつめる、人間の形をした白いキノコがあったり。こわくて、不思議で、かなしい。それらにたいして何の説明もない。
人類が全部いなくなっても、地球の自然の側と人間の作ったロボットたちで、人間の記憶を生かしていく。生命の消滅を超えたなにかの力が、消えた生命たちを別の形式で生かしていく。扱いようによってはいかようにもテーマを盛り込める強烈なSF的世界観のなかで、これほどまでにおだやかに進行し、詩的なかがやきをたたえた創作物を僕は知らない。

ヨコハマ買い出し紀行 1 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 1 (アフタヌーンKC)

  • 作者: 芦奈野 ひとし
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1995/08
  • メディア: コミック




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『苦役列車』(西村賢太) 『母子寮前』(小谷野敦) [Book]

2011年上期の芥川賞作、そして候補作を読んだので感想を。2人とも、僕ははじめて読む小説家です。
(朝吹真理子『きことわ』については別途書きます)

苦役列車

苦役列車

  • 作者: 西村 賢太
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/01/26
  • メディア: 単行本



『苦役列車』(西村賢太)

あらすじ、無いようでまとめやすいですね。「日雇い労働で暮らす、怠惰で、性格のひねくれた青年の日々」ですね(笑)ほんと、基本的に、これだけです。面白く読みました。
何が面白いのか。
端正な文章と、「ゲスい」(失礼かもしれませんが)内容のギャップですね。この組み合わせは阿部和重さんの作品にも感じますが、妙な滑稽さが醸し出されてくるんです。

また、天性のものなのか意図的にそうしているのかわかりませんが、作品に「重み」を与えようというような「ねらい」が無い。つまり社会性とかイデオロギーのようなものに安易に回収されない強度というか、そんなものどこ吹く風といった感じで、飄々と書きたいことを書く強さを感じました。この作者のことを「格差」とか「プロレタリアート」とかのわかりやすいキーワードでくくることは、無駄でしょうね。

私小説ということですが、ちゃんと自分を「・・・ダメだこいつw」と客観視することで渇いた笑いをところどころ演出しているので、「こういうふうに仕上げている」ものですね。

作業場へ向かう労働者たちのバスの中でカップサラダの汁をチューチュー啜っている男にイライラしたり、あまりの女日照りのせいで別れた「ブス」の排便まで愛おしい、なんて描写は、なかなかできないと思います(笑)このへんの突き抜け方は痛快ですらありますね。


母子寮前

母子寮前

  • 作者: 小谷野 敦
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2010/12
  • メディア: 単行本



『母子寮前』(小谷野敦)

私小説というカテゴリをあえて使って比すれば、こっちのほうがより完全な私小説です。自分を客観視する「セカンド自分」を感じない。つまり起こったことを「そのまま書いている」感がさらに強い。

母親が癌を告知されてから亡くなるまで(四十九日法要まで)の介護ドキュメント、と思いきや、こちらは社会性とかではなく安易に「感動」に回収されない、なんだか得体の知れない手触りがあります。

というのも、母の癌の告知当初は「悲しみ」の波にうちひしがれている主人公なのですが、他者性という意味で「怪物」のような父親への猛烈な「憎しみ」と、若い新妻ができたことの幸福で、心のなかの「死にゆく母親」の占める領域が、なんとなくしぼんでいくように見えるのです。僕が感じたのは、喪失を目前にしたそのときにも、悲しみだけじゃない、比率の安定しない、いろいろな感情をかかえて生きているという人の心のリアリティです。
読んでいると感ずるこういう「主人公の心の動き」を、自己分析(読者に説明)するわけでもなく、「思ったこと/起こったことをそのまま書いている」(ように見える)せいで、つまり下手な作為なぞハナから捨てるその姿勢が、私小説作家としては、ちょっと見たことがないレベルなんじゃないかと思うわけです。強烈な個性です。

母親がまだ生きているとき、病院の関係で、主人公がとある街を訪れるのですが、「母が死んだら、もう二度と来ないかもしれないこの街は、特別に記憶されるのだろう」と考える、とてもかなしく美しい描写(これも実際に思ったんでしょうね)がよかったです。

あと、癌の告知から死別までで、残される家族にとって最も「感情的に」辛い時期は、告知段階なのではないか、と、読んでいて思いました。ショック期というか。実際的介護を繰り返しているうちに、また衰えていく肉親の姿を見続けるうちに、介護の辛さはあるでしょうが、残された者は、失う覚悟をゆっくりと堅くしていくのでしょうか。
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世界と対峙する言葉――『切りとれ、あの祈る手を』 佐々木中 / 『神的批評』 大澤信亮 [Book]


切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

  • 作者: 佐々木 中
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2010/10/21
  • メディア: 単行本



神的批評

神的批評

  • 作者: 大澤 信亮
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/10
  • メディア: 単行本



2010年の終わりごろに読んだ、個人的にとても面白かった文芸批評本の2作に関して、ちょっと書いてみたいと思います。

『切りとれ、あの祈る手を』佐々木中 (河出書房新社)
『神的批評』大澤信亮(新潮社)

各評論の内容について詳細に論じる能力は私にはありません。ですので書評などという烏滸がましいことはできません。とても面白く読んだこの2冊への「肯定」を表現してみます。



「文学」というものは(あるいは他のジャンルの表現であっても)、それが物語であろうと批評であろうと、作り手が、世界から/世界を見つめる自己から、「何を」「どう」見出して(見出そうとして)いるのか、その表現であり、表明であるといえます。

書かれたテクストが、テクストを孕んだ表現者たちが、思考のサーチライトをどこへ向けて放っていたのか。そこに照らされた世界は、どんな可能性とともに語られるべきものなのか。
本を読むこと、まさに、ただそれ自体の崇高な体験によって、世界そのものを、どのように革めることが可能なのか――、
佐々木中氏も大澤信亮氏も、語りの質、題材、斬り込み方は異なりますが、古今、東西の宗教家、哲学者、文学者、芸術家たちの革命や論考、創作を通して、ほとんどの文芸批評がそうであるように、この眼前の世界と対峙するためのあり方について、論じています。



ある学問体系の言葉をもって語ることが、べつの学問の言葉をもって語ることよりも「現実」に対応している、などということは、特にないと思います。情況を分析し、対処療法的に現実への実践の道筋を提示することだけが、アクチュアルな思想ではない。
現実がどのようなものとして個人に迫っているのか、世界にどのような意味を見出すのか、それはもちろん果てしなく多様であるわけですし、どんな娯楽からどのような影響を受けて世界観や人生観を更新していくのか、その糧となる媒質それ自体に、優劣という尺度は必要ありませんからね。

『神的批評』で繰りかえし語られる、他者(他人、社会、自然)との接触や対話が必ず伴うはずの自己言及性と粘り強く向かい合う、という姿勢だって世界と対峙することのひとつの方法であるし、『切りとれ~』で砂嵐のような語調で語られる、ダンス、音楽、歌、服飾、詩、絵画、映画、それらのテクストを「読」み、みずからの生を「読んでしまった」者として「書き変える」、その営みに革命との連関を信じるという、泥くさい決意もまた、この現在を生き抜くための、ひとつの魅力的なスタイル(思想)であると思います。

通信技術と情報コンテンツを受容するためのアイテムやツールが発達し、娯楽が多様化/趣味のジャンルが細分化しつづけ、さらにそれらが再接続や統合をしてみせたりもする複雑な消費状況のなかで、批評や思想、文学の射程もいろいろな方角を向いていて当然だし、それが書籍業界を豊かにするのならば歓迎すべき事態だと思います。
佐々木さんの本が人文書としては相当な売り上げを記録しているという事実は、文化の爛熟した状況「だからこそ」、文芸という領域からいま・ここを解読したりいま・ここへ与えたりすることを探る言葉というものを、新鮮に受けとめた人が少なからずいたということの証左でしょう。それらの人びとの感性をべつの批評軸から否定することには、何の意味もないと思います。(あるいはもしかしたら、「ポストモダン」という魔法の言葉による、目的がどこにあるのかよくわからない執拗な解体作業に辟易している人にウケちゃっただけなのかもしれませんが)



1900年に没したニーチェは、没後のいかなる時代も読まれ、また語られて、人の心に何かしらの響きを残しているようです。言語も文化も宗教も異なる、実にさまざまな場所で。

たとえばヴァージニア・ウルフの小説作品をさまざまな時代の現在へ「送る」批評の言葉で、それぞれの時代の「現代人」の感受性に潤いをもたらすこと、そこから個と個のつながり、個と世界との関係を変革せしめることは、もちろん可能です。古くくたびれたテクストを何度も何度もいまへ送り届けることも、現実的な思想の実践です。
大澤氏は魯山人や賢治をそのように届けたかったのだと思いますし、佐々木氏は文盲率90%のロシアで書かれたドストエフスキーをみろ、滅びてなどいないではないかと叫ぶのでしょう。
「1995」とか、「9.11」とか「ゼロ年代」とか「リーマン以降」とか、そういう現実を解読する鍵のようなものに直接接続しなくても、くり返しますが、眼前の世界と対峙することは可能です。これがこの文芸批評の本2冊を肯定する理由です。

大澤信亮氏は『神的批評』の刊行時、こうコメントしています。

「僕は社会批評もサブカルチャー批評もやりました。しかし最終的に行き着いたのは文芸批評だった。ジャンルに優劣をつけるつもりはないですが、僕にとっては、文学こそがもっとも刺激的で、現実的だった。そこにはマンガにもゲームにもネットにも満たされない何かがあると感じます。とはいえいわゆる「文学好き」ではありません。むしろそういう人に対しては「他に面白いことがあるのに」とさえ思います。しかし、そんな自分が心から本気になれるのが、文学だった。だから僕は、『バガボンド』や『ジョジョの奇妙な冒険』や『HUNTER×HUNTER』や「ニコニコ動画」や「2ちゃんねる」よりも面白い批評を、本気で目指しています。マンガやゲームやネットを論じているわけではない。すでに一定のマーケットがあり、それについて論じれば数が稼げるという話ではない。しかし、それらが提示する物語や倫理やリアリティを超える言葉を実現することが、それらに対する真の意味での批評になると考えているのです」

周波数帯の異なる感性を持った人間の、「おもしろい」の中身を、みずからの作品で塗りかえること、変容させること――いち表現者のモチベーションとして、これに勝るものは、少なくともぼくは思い浮かびません。「娯楽」のコンテンツを、自分の作品に取り替えさせてしまう、そこを目指すことに何の滑稽さもない。それが「終わった」といわれるジャンルの表現であっても。

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新しいものの入り口を閉ざさない~「わたしたちに許された特別な時間の終わり」岡田利規(新潮文庫) [Book]


わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

  • 作者: 岡田 利規
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/12/24
  • メディア: 文庫


■宣伝文

「あ、始まったんだねやっぱり戦争。イラク空爆のそのときに、渋谷のラブホで4泊5日。――井上ひさし氏、野田秀樹氏らに激賞された、岸田賞受賞作「三月の5日間」を小説化。フリーター夫婦の日常を描いた「わたしの場所の複数」を併録。とらえどころのない現代を巧みに描く新鋭、チェルフィッチュこと、超リアル日本語演劇の旗手、待望の小説デビュー!」 第二回大江健三郎賞受賞作。


■感想あるいはこの小説を読んで、この小説についてのレビューを読んで感じたこと

僕はこの小説にとても感銘を受けました。正確に言うと大きな「刺激」を受けました。
僕は「自分個人の小説観」という評価基準に照らして、この小説2作品を非常に良質な文学だと思いました。「自分の小説についての価値基準」ですので、他の人がどう読むのか、何を感じるのかはわかりません。

「ある小説観」に照らせば、この作品は非常に退屈で、読み進めるのも困難な小説だと思います。
たとえば「小説とは物語の面白さである」と信じて小説を手に取る読者がこの作品に遭遇したら、ちょっとした苦痛を感じるかもしれません。起伏に富んだ「おもしろい物語」を求めることと、文章それ自体への試みや実験を求める感性は、なかなか同時に成立しないものだと思います。キャメロンの映画「タイタニック」を本当に面白いと感じる女性が、タルコフスキーの映像詩「ノスタルジア」も本当に面白いと感じる可能性は、ゼロではないにしろ、非常に低いと思われます。

いい悪いではなく、人の感受性は多様だということです。

「わたしたちに許された特別な時間の終わり」所収の中篇2作品は、「人称の常識」をいともあっさりと破るという文学的挑戦を試みている(興味があるひとは買って読んでみてください)ので、「これまでの自分の読書経験で培われた読解力」で対応できないことを’肯定的にとらえられない’読者がいるとしたら「ん?なんだこれ?」と、大いに戸惑うことでしょう。ストーリーなど、あってないようなものです。

くり返しますが、僕はこの小説2編を全面的に肯定したい、それほど感銘を受けました。内容については触れませんが、せつなくなり、苦しくなり、希望を感じ、僕たちが生きているこの世界のことが、小説を読む前よりも愛おしくなりました。そういう読書体験は僕が最も求めているものです。

小説には実にいろいろな形式や作風があり、それを「面白い/つまらない」と感じる読者の側の小説観もまた、無数にある。

あまりそういうことをすることはないのですが、この小説を僕以外の人はどのように読んだのだろうか、何を感じたのだろうか? ということが少し気になり、Webで「わたしたちに許された特別な時間の終わり」についての感想をチラチラ読んでみました。それらを読んで思ったことが、僕に前段のような文章を書かせたのだと思います。正直に言うと僕はイライラしてしまいました。イライラしてもまったくしょうがないのですけれど。

twitterでも書いたのですが、 自分個人の「好き/嫌い」「わかる/わからない」をそのまま作品の「良し/悪し」だと、けっこう横柄な口調で断じている人が多いんですね。自分の価値基準を信じるのは、僕もそうだし、構わないのですが、「つまらん→ダメだこんな小説」と断じ、そこで完結している盲目性が、匿名性のヴェールの内側の独善的な性格と結びついて、醜悪だということです。
「自分にはダメだった」「自分には理解できなかった」のを「作品がダメだから」にためらいもなく置換する、内省を欠いたその傲慢を、僕は不快だと感じたのだと思います。もっとも、読者レビューだけじゃなくて、そういう思考パターンの人って結構いますけどね。

つらつら書いてきてしまいましたが、要は(要はってイヤな言葉ですね)、
作品を理解できないのは作者のせいだけじゃないからね、ってことを思ったわけです。あなた自身が閉じているせいで、新しいものが入ってくる入り口がないだけなんだよ、と。・・・まあこれはレビューについての感想なので、作品それ自体には関係ありません。

好き/嫌いでいいのです。素人なんだから。僕は本編2作のことが好きです。「好きな根拠」を書けと言われれば書けますし、逆に僕が「つまらない」と感じた小説があって「嫌いな理由」を書けと言われれば、書けます。ただ、とにかく、自分の「好き/嫌い」というものは、対象となる作品の「良し/悪し」とは本来無関係なのだよ、と、この小説集を読んだことに端を発し、思った次第です。
タグ:岡田利規
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『福翁自伝』(福澤 諭吉) [Book]

『福翁自伝』(福澤 諭吉) PHP研究所

福翁自伝

福翁自伝

  • 作者: 福澤 諭吉
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2009/04/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


かの福沢諭吉の自伝です。
自伝というジャンルはあまり読んだことはありませんでした。人物の魅力に触れ、そこから何を感じ、自らに取り込めるか。これが自伝を読む楽しみなんだなと知りました。そんなの当然か(笑) まあ、面白かったです。自己への誉れやナルシシズムを垣間みせず、清々しい語り口。かんたんに感想書きます。

本自伝を読んだ僕の福沢諭吉像というのは、まず第一に、高潔だということ。高潔という言葉がこれほど当てはまる人物は知りません。すさまじいまでの潔癖さで、自らの倫理を貫いています。その信念とは何なのか。独立の精神と言えるでしょう。まさに時代が革まる時、大きな変化のうねりの中に生きながら、体制に属さず、個であることを貫徹しています。これほどの知者でありながら奢ることなく、信念を全うしている。その強靭な意志の力が凄い。変化を具体的に推進していった数多の幕末の偉人たちの中にありながら、その点において異彩を放っています。
隠者ではないですが、表舞台に立てる能力のあることを自他共に認めながら、政治(まつりごと)には一切関わらない。この性質をどう捉えるかで、評価の分かれるひとでしょうね。

この潔癖さの根源は、封建制度への強い反発(学問を志しながら下級武士として生涯を終えざるを得なかった父の無念)から始まっているようです。閉鎖的な環境や自由意志が許されない状況を、生涯に渡って忌み嫌っている。それからたとえば、旧幕臣が新政府の要人として平気な顔で居座るのを批判したり、官吏・役人の民衆に対しての高圧的な性質を心底嫌悪したりしています。西洋の思想を志しながら、若いころ捨てた儒、儒教的な道義・仁義が中枢にあるようで面白い。思想というよりも、要は「曲がったことが我慢ならん」性格をしてるんですね。金の貸し借りも大嫌い。とにかく自分の価値基準に一貫して忠実です。
別の視点でみると、精神的な脆さがまるで垣間見えないので、人間味に欠ける印象です。親友はべつにいない、他者に直接怒りをぶつけたことがない、他人にどう思われようとまるで気にならないなど、どこまで聖人君子なんだよ!と少し思いました。

属す組織や家柄などをもって自らを何者かだと思わず、あくまで尊厳をもった個人として己を高めなさい。僕なりに福沢諭吉の「独立」の思想をシンプルに解釈するとこうなります。この自伝を読む限り、福沢諭吉の高潔な人生はその思想からまるで逸れるところがない。

面白かったのは、あれだけ独立不撓、不撓不屈 の精神をもって学問の求道者でありながら、自分の子供には勉学なんてどうでもいいよと言っているところですね。育児に関しては「まず獣身を成してのちに人心を養う」と言っています。子供は元気腕白が一番ということ。のちに留学する息子には、勉強しすぎて青白くなっちゃうくらいなら、筋骨たくましい無学の男になって帰ってくるほうがよっぽどいいと言ったり。このあたりにも強い信念がある。

学ぶところが沢山ある偉人です。
ただ巷で見かける「歴史上の人物から学べ」的な書籍から受ける印象と異なるのは、龍馬や勝海舟や信長や家康や上杉鷹山などが、政治的社会的な切り口でそこからビジネス上の社会性や外交能力、組織内での処世術やリーダーシップを抽出されているのに対し、福沢諭吉から吸収できるのは、それとは対極、つまり経済的社会的な「利」を得ることを目的としない、自立し自律する個人の品格、とでもいうべきものでしょう。やはり名だたる歴史上の人物の中に並べてみても、異彩を放ちますね。勿論あの変革の時代であればこそ出てきた1人であることは確かです。

個であること、これは高度消費社会に生きる我々にはなかなか理解しがたいし、また実践することが難しいことだと思いますが、こと教育について言えば、僕は自分の子供たちに「価値観の多様性」こそを教えていかなくてはならないと常々肝に銘じているので、一元的なモノの考え方にとらわれないよう、これからもアンテナを絶えず動かしながら自ら学ぶことを継続していかなくてはと思いました。以上が『福翁自伝』の感想です。

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ちなみに病院や銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などを「輸入」したのはこのひとなんですね。男女の地位を平等にし、一夫一婦制を強く主張したり、あの時代にこのお方がいなければ進歩の遅れた事というのはたくさんあるでしょうね。
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村上春樹『1Q84』 3.物語が対抗すべきものとは [Book]


1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/05/29
  • メディア: ハードカバー




村上春樹『1Q84』(BOOK1、BOOK2)の内容について、具体的に踏み込んでみます。長いです。

観念そのもののが服を着たような、ゲームのキャラクターのような人間が、観念そのものを生み出す暗黒的な巨大な存在を相手に戦う、という物語の『1Q84』ですが、人間同士が交わるときに生ずるコミュニケーションの摩擦を無視してそのような物語を描かれても、僕はそこからポジティブな何かを感じることができません。

これが僕がこの物語を肯定的にとらえられない理由ですが、では前回「サイキック・バトル」なんてひどい言い方をしてしまったこの物語とはどのような物語なのか。ひとつ腕をまくって、振り返ってみましょう。
# ネタバレあり

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まず、この「物語」は、とても説明的に語られているため、これまでの村上春樹の小説よりよっぽとわかりやすいです。物語というには、もの凄く説明的です。「ねじまき鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」では若干途方に暮れさせられたんですが、あれらの作品も、つまりはこういうことが言いたかったのね、ということが、僕の中では明らかになった気がしました。エルサレム賞のスピーチ「壁と卵」を踏まえると、さらにわかりやすい。

「神話や原理主義に対抗する為に物語を立ち上げる」のが小説家の役割だ、という村上春樹自身のコメントが、そのままこの『1Q84』の物語になっています。そして「空気さなぎ」という作中小説も、そのことを更に自己補強する物語です。そういう意味では、この小説は、村上春樹自身と数多の読者双方において、ひとつの結節点となる作品ではあると思います。(ご丁寧に、物語に対して向けられるであろう批判にも対しても、先回りして予測しています)

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この文章は、既に読了したひとに向けて書きますので、あらすじ的な、物語の説明はしません。物語を分解するのは気持ちいいものではないですが、「神話や原理主義に対抗」しうる物語がいかに書かれているのか、を僕なりにまとめたいので、強引に整理だけはしてみます。
# 読み返したりはしないし手元にないので、覚えているまま書きます

「青豆の物語」「天吾の物語」がパラレルに進行しているように見えて、軸はそのふたつじゃないです。

・「リトル・ピープル」と「物語」の戦いの物語
・ 青豆と天吾の愛の物語

だと思います。さて、では同時に一気にまとめます。繰り返しますが、既に読んだヒト向けです。
まず用語整理。僕なりの定義も入っています。当然解釈は他にも、いくらでもあるでしょう。

パシヴァ=知覚者 レシヴァ=受容者
マザ=意識 ドウタ=集合的無意識
わざわざボカしているものを限定したくないけれど、マザは善意(卵)・ドウタは悪意(壁)とも言える

・すべての存在は実はマザとドウタを併せ持っている
・人間はすべて同じドウタを共有しており、ドウタの集積が「リトル・ピープル」である
・リトル・ピーブルは「空気さなぎ」を作り、空気さなぎの中に出来上がる「マザから切り離されたドウタ」を通路にして、その力を世界に及ぼす

複雑なようで整理してみるとわかりやすい設定ですが、まだ細かな複線や設定はいろんなところに仕掛けられてあった気がします。謎だらけですが、まあ、人物や団体を僕なりにあてはめていくと、物語の骨格は以下のようなものになると思います。

・善なるものを志向したマザ的なコミューン「さきがけ」は、暴力を志向したセクトを切り捨てた
・そのかわりドウタの集積たるリトル・ピープルの力が、ふかえりのドウタをパシヴァとして現れ出る
・パシヴァ(ふかえり)のドウタとレシヴァ(さきがけリーダー、ふかえり父)が性交することでリトル・ピープルの力が増大し、「さきがけ」はリーダーを核にダークなものを内包していく
・マザとしてのふかえりは「さきがけ」を脱出、天吾というレシヴゥと出会い、一遍の「物語」を世に送り出す。結果リトル・ピープルという存在は明るみのもとにさらされてしまう
・ここで「リトル・ピープル vs 物語」という構図ができあがる
・暴なる男性をこの世から消している暗殺者/青豆は「さきがけのリーダー」の行為(老婦人等の常人から見れば少女レイプ)に制裁を加えるという目的から核心に迫っていく 
・ダークな存在であり続けてこそ力の影響を強めるリトル・ピープルにとって、異なる方法で自分たちを照射する天吾と青豆は邪魔者であり、それぞれの親しい存在を消すことで敵の戦意をくじこうとする
・青豆はみずからの命を差し出す必要を了解した上で、レシヴァたるリーダーを殺害し、リトル・ピープルの力を、一時的に機能停止させる。結果天吾へ迫る危機も遠のく
・リトル・ピープルの一時撤退した瞬間(青豆がリーダーを殺害した瞬間)、マザのふかえりは天吾と交わることで、天吾に青豆の存在を確かに実感させる
・死に際す父の病床にて、リトル・ピープルが青豆のドウタを天吾の眼前に出現させるが、その瞬間青豆は自ら命を断ったのだろう、ドウタは消えた
・青豆は天吾への愛を胸に死に、その死を知らない天吾は青豆への愛を胸に生きることを決意する
・天吾は自分の「物語」を書き続けることで、また何らかの形で出現するであろうリトル・ピーブルに対抗していくのだろう

・・・疲れた。僕はまあ、こんな感じにこの物語を解釈しました。さっきも書きましたが、当然解釈はいくらでもあるし(僕もいくつか別の解釈がある)、複線や詳細設定はまだまだある。とにかく感想をいったん、簡潔にまとめます。


・「リトル・ピープル」と「物語」の戦いの物語
→ 村上春樹が実際にインタビューで語ったこと、「原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げること」そのまんまの物語。物語の調理を施された、彼自身の思想。
 
・ 青豆と天吾の愛の物語
→ 愛を充分に知らず(わりとシンプルで強いトラウマを抱えたまま)いびつに成長した青年男女が、「愛すること」「求められていることを知ること=愛されること」を知り、死と生を引き受ける一種のロマンス。愛こそがすべて。

この物語の内部で起きている個々の事象やメタファー、つまりドウタとかパシヴァとか空気さなぎが何だとか、そういうことにはあまり興味がありません。青豆と天吾の愛の物語にも、そこには人間的なコミュニケーションがないのでまったく感情移入できません。僕は謎解きなんて面倒なんで大嫌いです。実はRPGも、中学のときドラクエを一瞬やっただけで、手を出したことがありません。「原理主義やある種の神話性に対抗する物語なんじゃないかな」で充分です。
じゃあ、どう対抗しうるんだ、ということには興味があります。そこを考えつつ、自分の考えを乗せてみようと思います。散漫な文章になると思いますが、ご容赦ください。

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構想のきっかけはオウム真理教うんぬんと村上氏は言っていますし、確かにオウムを想起させる団体は出てきますが、逮捕時に5000万(だっけ)の現金を抱えて隠し部屋に丸くなっていた麻原彰晃みたいな「俗」の側面は描かれていないし、むしろ村上春樹はオウム真理教的なるものを、物語の材料として自分の言いたいことの土俵に引っ張りあげ、自分の思想からハミ出ないように都合よく解釈しただけのような印象です。少なくとも僕が読んできたオウム関係の書物から僕なりに想像した彼らの本質とは、まるで異なります。地下鉄サリン事件の被害者と加害者のコメントを採集し、あの事件とオウム教団について長いこと考え続けてきて、結局お得意のメタファー、「羊」や「やみくろ」とよく似た「リトル・ピープル」みたいなものに持っていくところがさすが物語作者というか、いかにも村上春樹な感じすぎて残念といいますか。あのスピーチでも、たぶん僕はそれと同じものを感じたんでしょうね。自分が言いたいことに現実を押し込めてないか?みたいな。

オウムもエホバの証人も単にモチーフではあるんでしょうが、圧倒的多数の読者に届く作品のなかであのように語られることは、「本当に」オウムのことを研究してきた学者や被害者の弁護士からしたら、おいおいちょっと・・・となる気がします。被害者や元信者への「本当の」救済活動に比べたら、物語の力なんてたいしたものじゃありません。実際事件には関係のなかった僕を含む多数のひとたちへ向けて個性的な波紋を投げかけることにはもちろんなりますが、それにしたって、カルト宗教の例を出さずとも、善は悪を、悪は善を内包していることなんて、わかりきっています。麻原彰晃も最初はヨガの修験者でした。体制や「システム」から逃れた集団が、別の体制や「システム」と化していく。純粋な善意が角度を変えたら悪意の顔をしている。そんなことはみんな知っています。リトル・ピープルの媒体となり世界に不吉を拡散し、対抗勢力に自分の娘を据え、すべてを承知し最後は救済の方向へ体を倒す「リーダー」と、善なるものを信じ悪だと判断したDV男を殺害している青豆に、倫理的決着なんてつけられません。これも読者は知っているでしょう。僕は、ここに出てくる組織とオウム真理教とを結びつけることはしません。

それで、この『1Q84』という物語が、リトル・ピープルだかビッグ・ブラザーだか壁だかシステムだか、言い換えると、原理主義や神話や集合的無意識(ググってね)、あるいは弱き者の心の集積、さらには「人間を乗り物としている遺伝子をさらに操縦している大いなる意思」みたいなものに対抗しうるかというと、対抗しうるのは、結局は「物語」そのものというよりも、物語の核にある思想なわけですよね(否定する方はたくさんいるかもしれませんが)。
ストーリーの衣をはがしたら、出てくるのはインタビューとかで語っていることそのものじゃないか、と思いました。物語のグローブを外して殴ってほしいと思っている読者も多いんじゃないでしょうか。確かにインタビューやスピーチは消えても、物語は残ります。けれど物語の中から更に風化せずに残るのは、寸鉄の箴言なのではないでしょうか。多くの古いアフォリズムもこの世には膨大に存在し、人の心に響き続けています。
少なくとも、ビッグ・ブラザーのようなお方がいるご近所の国や、本当にリトル・ピープルのようなモノが実在しそうなミクロネシアとかの南の途上国なんかには、こんな物語は通用しないと思います。せいぜい、読み物として消費されるだけでしょう。村上春樹は中国の若者の間でも流行りはじめているらしいですが、それは数十年前の日本みたいになりつつある都市部だけなんじゃないだろうか。中央の政治の実態なんてまるで見えない、電気も引かれていない寒村の田園の民には、まるで金に不自由しない人物しか出てこない小説なんて、これっぽっちのリアリティもない。「システム」なんて言われたって、意味不明です。

では「9.11」で現実が映画になってしまったアメリカや、日常が惨劇の舞台になった「1995年」の神戸や霞ヶ関以降を生きる、現実と非現実の境界がグラついているとリアルに感じた「現代人」にとって、この物語の思想がどう有効なのか。僕にはまるでわかりません。少なくとも、僕は「9.11」や「1995」以降、というくくりで何かを考えたりしていません。つまり僕の実生活と価値観においては、この物語が入ってくる隙間がありません(あ、結論みたいなこと言いました)。
もし僕が現実に、何かの暴力や災害で大切な存在を本当に失っても、「システム」やリトル・ピープルなんて言われてもピンと来ないだろうし、極端なことをいえば、どちらかというと物語じゃなくて信仰の方を向く可能性のほうが高いです。もちろん優れた文学作品は、絶望からひとを救済する力はあるとは思いますけど。「システム」なんていうのは、学者が高みから発しているような言葉に聞こえます。

もし今の先進国で、「物語」を武器に何かに対抗すべきなのだとしたら、僕は、その対象は、はっきりと、「資本主義社会」だと考えています。(あれ?村上春樹も昔はそうだったっけ?)

第二次大戦の敗戦からまず衣食住をたて直し、大きな希望と共に高度成長があり、イデオロギーの闘争の時代(と挫折)があって、80年代に入って円も強くなって、みんなで働けば豊かになれる・みんな欲しいものをどんどん買って豊かになろうぜ、という1億総中産階級化がある程度達成されて、物的豊かさに満たされた社会のなかで(メインカルチャーという「ビッグ」からサブカルチャーという複数の「リトル」に文化的にも変容していったりして)「モノはあるけど豊かさを実感できない」「大きな希望がない」「競争ばかりでなんだか生きづらい」と感じた人間の一部が、カルトに走ったりしたと思うんです。僕はオウムは、少なくとも形成段階に集った若者についてはその文脈で考えているし、ついでに言うと、堀江貴文みたいな怪物も、オウムとは逆の意味で、つまり精神性の深化ではなくて、精神性の欠如という形で、資本主義社会の土壌から生まれ出た、日本社会の新人類なんだと思います。

モノとカネで満たされることにはどうしても幸福を見出せない、センシティブで内向的な感受性を持った迷える羊の受け皿という意味においては、カルト宗教も、村上春樹の小説も、似たような役割を果たしていたんじゃないか。
その自覚から村上春樹はオウム問題にシンパシーを感じていたんだと思っていたんですが、どういういきさつか知りませんが「ねじまき鳥クロニクル」あたりから露骨に「各個人の井戸の底はひとつの水脈」みたいな、ユングみたいなことを言い出して、諸問題をそこに結びつけて考えるようになり、今回の『1Q84』でその思想が極まったというか、どちらかというと「ねじまき鳥」と「カフカ」を圧縮したような、「物語」の豊かな可能性とひろがりを逆にそぎ落としたような、説明的な、より結晶化された思想的な作品が、出来上がってきました。
そういう意味では、次なる長編がどこへ向かうのか、気にはなります。こうして僕は村上春樹の小説を読み続けるのか(笑)

で、
何が言いたいのかというと、今、大きな物語をつくるのなら、対抗すべき相手はわけのわからない闇なんかじゃない。これは完全に僕個人の思想というか、現実を生きるためのスタンスです。描かれ、紡がれ、流布されるべきは、モノとカネに対抗する価値観を直接的に注ぎ込んだ、日常の輝きを地に足をつけて描いたような、物語というよりもささやかな「小説」なんじゃないかと、こう思うわけです。
毎度おなじみのメタファーであいまいめかして、センシティブな内向性を持った人たちへ向けたサプリメントや精神安定剤みたいな作用を与えるんじゃなくて、愛する者とつつましやかに暮らす平坦な日常の美の価値を、新鮮な野菜や冷たい水のように与えるべきなんじゃないか。
・・・モノやカネだけじゃないぜ、という価値観を、「Q」なんてつかない世界の日常を題材に言い続けることが、オウムに走った人たちを減らすことにつながるんだと、僕は信じているので。


まあそんなわけで、『1Q84』が自分にはこんなに響かなかった、ということを物凄く長い文章で書いてきたわけですが、
天吾と青豆の物語において「愛する者の存在」こそが、「壁」に立ち向かう力になるのだ、というシンプルかつ力強い表明がされたことについては、全面的に同意します。
結局はそれしかないんですよね、僕たちの世界でもっとも大切なものは、と僕も思うわけです。・・・あれ、つまり、最終的にはこの物語から僕も何かのひとかけらを受け取ったことになるわけだ。ま、それはそれでよし。
タグ:村上春樹 1Q84
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村上春樹『1Q84』 2.コミュニケーションの欠如 [Book]


1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/05/29
  • メディア: ハードカバー



村上春樹『1Q84』(BOOK1、BOOK2)の感想に入ります。
長いので、興味のある方だけ読んでみてください。

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この小説の「どうしても気に食わないこと」について、最初に書いておきます。そしてそれがこの『1Q84』についての僕の批判的見解の中核を為しています。一言でいうと、「コミュニケーションの不在」とでも言うべき、登場人物たちの関係性です。

『1Q84』というか村上春樹の多くの作品にも言えることかもしれませんが、個が別の個をいとも容易に受け入れます。人間と人間の関係が、スムーズで無駄のない理解に満ちています。それも、ほとんど完全な理解ばかりです。おそらく、僕はこのことがどうにも気持ち悪いんだと思います。読みながら「おいおい、またかよ…」って思っちゃうんですよね。まるで他人とは、いや、「わかりあう必要のあるひと」とは、言葉なんてなくてもわかりあえるとでも言っているような、他者への深く正確な理解に満ちています。「あなたは何も言わなくていい。すべてわかっているから」みたいな、常人からしたら特殊能力としか思えない、神の如き理解力を持った人間が何人も出てくる。そしてそのような相互理解を当然のように前提として、物語は進行する。

個人と個人の無理解や齟齬、誤解、曲解、軋轢、伝わらないものを必死で伝えてもなお伝わないもどかしさ、伝わらないことの失望、絶望、邪推、思い込みや決めつけ、どうにかこうにか伝わったことの喜び、、僕たち人間の、人間と人間の関係とは、そのような、非常に不便で、歯がゆい、面倒なもので、それゆえ他者とコミュニケーションをするときには、とても大きな力を必要とするものじゃないのかな・・・ その行いはもちろん尊いものだし、社会生活のみならず家庭や友人関係の営みにおいても、その努力を避けることはできないのではないでしょうか。

『1Q84』の登場人物は、そうした、人間が他者と交わるときに生じる日常的な不自由さからは、完全に自由です。彼らはもっと大きな存在と交わり、闘争しています。もちろん、これは「物語」ですから、等身大の人間を描くことが良いというわけじゃありません。複数の巨大なメタファーがこうべを上げて、僕らがリアルだと思っている大地をグニャグニャとしたぬかるみにしてくるような仕掛けの、大きな話です。個々の「ふつうの」人間同士が、いちいち対人上の齟齬で立ち止まっていたら、物語は進みませんからね。でも僕は、このコミュニケーションの不在のせいで、本作に登場する人間たちがとらわれている苦しみや恐怖に、これっぽっちも同化できませんでした。

村上春樹の小説に出てくる人物、特に主人公は、みんな似たようなキャラクターであり、似たようなセッティングを施されていきます。理不尽な巨大な力(The System)に直面し、怯えたり、喪失感に途方に暮れたり、克服しようとしたり立ち向かったりしているのですが、いとも簡単に大きな経済的後ろ盾を得たり、恐ろしい洞察力を持った「善」の側の「導き役」がすんなり登場したり、いとも簡単に異性とわかりあったりセックスしたり、いとも簡単に目の前の大金を放棄したり、いとも簡単に芸術や娯楽の趣味が一致したりします。そして主人公の内面や肉体が直面している問題に対し、周囲はいとも簡単に迅速で正確な理解を示す。
物語内部で起こっていることの「大きさ」や「深刻さ」に対抗するだけの力を、主人公サイド(個人)がいとも簡単に身にまとっていく。そう、もう言われていることかもしれませんが、ロール・プレイング・ゲームみたいなんですよね。その通り、それが春樹さんの小説なんです、そんな、ちょっと不吉なゲームみたいな物語でも、面白ければいいじゃん。という見方ももちろんアリなんですが、それで自分は「The System」に光を当て続ける小説家だ、小説家は物語の力で神話や原理主義に対抗すべきなのだ、と言われてしまうと、うーん・・・となる。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm

原理主義に対抗するために物語を立ち上げる、というのは、小説家を生業とし、文学で人の意識の異化を意図する者の発言ということならば、まあワカラナイでもない所信表明だとは思うんですが、そんな彼が立ち上げた最新の物語は、「毎度おなじみの」摩擦なき理解ばっかりで構成されている。
個と個、ある会社組織の課と課、B to Bの企業同士、ある思想とべつの思想、国家と国家、宗教と別の宗教・・・ ある存在や概念が別の存在や概念と交わるところには、必ずコミュニケーションの摩擦が生じるはずです。同じ方向を向くことを目指そうとする活動の中でも当然争いは生じるし、異なる方向を見ている相手を許容していくという最も友好的・平和的なプロセスの中身にも齟齬や誤解が満ちている。その結果が奇跡的な邂逅であろうと、暴力につながる完璧なる断絶であろうと、希望を残した決裂であろうと、言葉による、コミュニケーションの不断の営み抜きには、進歩も後退もない。
それでもわかり合おうとする他者への、同時に自己への働きかけを描いてきたのが文学だとしたら、この、一種の「サイキック・バトル」とでも呼んでしまいたい物語における、複数の登場人物にとって相互に都合のいいコミュニケーションとは、いったい何なんだろう。

ある「壁」と戦うことを宿命づけられた同じ集団に属す「卵」と「卵」が、自分たちが同じ卵だと認めるのにさえ絶え間ない対話が必要なのに、どうして、「壁」そのものの力を体現する「あちら側」の「卵」と、こちら側の「卵」が、いとも簡単に理解しあえてしまうんだろう。

コミュニケーションの欠如した小説が何を描こうと、僕はそんなものには何ひとつ影響されることはない。

うわ、これだけのことを言うのに、こんなに長くなってしまった。。しかももっと長くなりそうだった。。
まあでも、それがこの『1Q84』(BOOK1、BOOK2)に対する、いちばん大きな感想です。エルサレム賞のスピーチでイヤな気分になったことを引きずりつつ読んだので、いささか否定的なスタンスで読んでしまいました。

さて、それでは、次回は具体的に(まだ続くのかよw) この物語の内容に触れつつ、
・「村上春樹のメタファーは、少なくとも僕にとっては、何も言っていないに等しい」
・「コミュニケーションの欠如した小説が何を描こうと、僕はそんなものには何ひとつ影響されることはない」
と偉そうにのたまった、長~い感想文を締めたいと思います。
タグ:1Q84 村上春樹
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村上春樹『1Q84』 1.エルサレム賞のスピーチについて [Book]



1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/05/29
  • メディア: ハードカバー



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村上春樹『1Q84』(BOOK1、BOOK2)の感想を書きます。
ブログ1回分でまとめられるかどうか。やってみます。もしかしたら2回になるかもしれません。最初に断っておくと、多分ネタバレを含みます。まだ読了していない方がもしこのページを開いてしまったら、以下の文章は読まないほうがいいと思います。

どうやら驚異的な売り上げを記録し経済的には完全に成功をおさめているらしい『1Q84』。村上春樹の作品は、現代の日本の社会において一種のサプリメントとうか、精神安定剤のようなものとしてかなりの需要があると思っているので、ベストセラーは不思議ではありません。

好みということでいうと村上春樹の作品はそれほど好きではありませんが、娯楽や芸術に触れ何かしら考えたりしていると、彼の小説は無視できないというか、興味深いものが潜んでいることだけは確かだと感じています。ただどうしても気に食わない部分も明確にあって、それが何なのかちゃんと言葉にしたことがないので、今回いっちょまとめてみようと思った次第です。

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まず本作の感想を書く前に、今年1月の、イスラエルの文学賞「エルサレム賞」授賞式での、村上氏のスピーチについて触れます。そのまま後半の感想に接続します。

↓全文訳
http://q.hatena.ne.jp/1243143492

このスピーチの内容を読んで、僕は村上春樹の「どこを自分は受け入れがたいと感じているのか」がハッキリわかりました。彼はこのスピーチの中核でメタファーを使用しました。物語の中でなら、それがディティールであろうとストーリーの核心であろうと、いくらメタファーの'霧'で「曖昧めかし」てもいいと思うんです。しかし、喩えを持ち出すのも、時と場所を選ばないと逆に恥ずかしいことになるなあ、っていうのが、あのスピーチを聴いた(読んだ)僕の瞬間的な反応でした。何度か読み返しました。そしてどう見ても、核心で「卵と壁」なる比喩が使用される部分が、やはりおかしいという印象をぬぐえませんでした。
僕は'霧'(←これがメタファー)がとても不快なのだろう。
それが『1Q84』そして村上春樹を正面から肯定できない理由ということになりそうです。

# 一文一文を引っ張ってまな板に乗せて、つまり僕は「>」で引用して、文章をバラして否定を行うのはキライなんでしません

スピーチの論旨
・卵=個、壁=大いなる制度
・自分はいかなる場合においても卵の側に立ち、壁に光をあて続ける


「壁」というものを「爆撃機、戦車、ロケット砲、白燐弾」、「卵」は「非武装の市民」を指すとしつつも、そこからまた「壁」を「大いなる制度」と表現しなおしており、あえて特定していません。英語で「The System」と言っています。果たしてこの彼独特の意を含んだ「The System」なんていう言い回しが、たとえば国外の人間に通用するのでしょうか ? 英語圏のヒトに訊いてみたいです。「システム」って、その前に○○ってつけないと意味通じなくないかな? 自分なりの意味づけをしているようですが、その説明がないと意味わからないです。とにかく「壁」と「システム」を同義として併用しながら、言ってみれば「平和を暗に訴える」ような形でスピーチを終えます。

壁・・・具体的には、たぶん国家、軍、イデオロギー、権力、体制等といったものを指しているのでしょうが、この場に及んで「解釈の余地」を聞く側に与えるのは、なんというか、ズルく見えます。「政治的なメッセージ」ではなく「個人」としての発言としていますが、結局、政治的文脈の渦の中心の「公の場」であることを充分に踏まえた内容となっています。
繰り返すようですが、ある具体や概念をべつの何かに置換して表現し、解釈の余地を与えてわざわざ伝わりにくくするのは、この場合においてはある種の「逃げ」に見える。それを、自分は小説家なんでアナロジーでいきますよという姿勢でボカしている。

今まさにひとつの暴威が強大な力を振るい、多くの一般市民を無差別に攻撃・殺害している(女学生や子供が避難している施設を狙って爆撃したりもしている)その場で、「壁」(The System)と「卵」? 
「壁」がいかに多義的な意味を含もうが、今、彼の立つ、その場における「The System」とは、紛うことなくイスラエル政府であり、その軍隊です。まあつまり、なんというか、非常に滑稽だと思うんですけどね。スカした言い回しはダサいし、わかりずらい。

そもそもわざわざ「壁」と「卵」という比喩を使用して、それらの指し示すところの存在なりをあえて限定しないつもりなのでしょうが、特定の比喩は、逆に、聞いた人間のイメージを限定(固定)するように作用する場合もある。さらに危険なのは、この喩えは「二項対立」http://home.n03.itscom.net/fujisaki/tairitsu.htm概念になる危険をはらんでいること。人間にとって二項対立を思考のベースに据えることは非常に安易で、逆に思考の自由な広がりを阻害する可能性が高い。
壁と卵という一対は、世界的に読まれている小説家が安易に口にしていい喩えなのか?

末尾で「システム」への勝利の希望を語り、だが「システム」を作ったのは私たち人間、つまり壁を作ったのは他ならぬ卵である、とも言っているのですが、壁を形成している成分としての卵に勝利したとき、そこに具体的に何が生じるのか? そこには触れていません。
「という感じで平和を目指しましょう。賞をありがとう」みたいな。

壁は単に壁だし、卵は単に卵。現実的に壁が作られるのには理由があるし、卵は生物の誕生直後の形態です。それ以上の意味はない。
人間が戦争をするのには、具体的な理由があるのです。

同じ賞を数年前に受賞したスーザン・ソンダクという作家の、とてつもなく素晴らしいコメントを見つけた。
徹底的にイスラエル軍を批判した後、彼女はこう言った。
「わたしは単独者の声と、真理の複数性で構成される文学の創造のために苦闘しているイスラエルとパレスチナのすべての作家と読者に敬意を表して、この賞を受け取る」

長くなりました。『1Q84』の感想につなげなくては。でもそれは次回になっちゃいそうです。一応この文章をしめくくります。

村上春樹のメタファーは、少なくとも僕にとっては、何も言っていないに等しい。
タグ:1Q84
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読書感想 『あなたの人生の物語』(テッド・チャン)  その1 [Book]

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

  • 作者: テッド チャン
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2003/09
  • メディア: 文庫

SF作家の短編集です。(ハヤカワ文庫)

読みながら、果たしてコレってSF?とも思いましたが、まあジャンルなんてどうだっていいや。
8篇の小説が収められています。
どれもオリジナリティのある作品で、とても愉しめました。
というか、物凄い可能性を秘めた才能(思想?その哲学の向かおうとしている先?)だと感じました。

その中から2点、感想書いてみます。
感想というか紹介ですね。
・・・長くなりそうなので2度にわけます。キョーミのない方はスルーでお願いしまス。


「あなたの人生の物語」

(1)
言語学者の主人公(女性)が、「あなた」という2人称で、「25歳で死亡した娘」に語りかけている。
語りの内容は主に娘との人生の様々な場面についての思い出なのだが、文章は「~でしょう」「~となるでしょう」のような未来形。

(2)
異星人が地球に滞在している。人類と異星人の間には友好的な関係が築かれており、地球の科学者は研究対象として「彼ら」とコミュニケーションを試みている。
1)の語り手の女性は言語学者として、彼らの扱う言語について調査分析している。

(1)と(2)の場面が交互に語られる構成。
メインとなるのは(2)のストーリーです。


異星人(ヘプタポッドと呼ばれる)は、書き言葉が人類のそれとはまったく異なる性質を持っている。
(2)で明らかになっていく、この彼らの言語の(われわれからすると)特異な性質こそが、(1)の物語のキーとなっている。

僕たちの言語は因果的であり線的(、「ぼくが」「リンゴを」「あなたに」「渡した」)であるのに対し、
全方位対応型の体型をしている彼らの書く言語は、
はじまりから終わりまですべてが一挙に掲示される、線と線が複雑に絡み合った巨大な図形のようなものだった・・

このような言語を扱う生命体が、どのような世界観を持っているのか。

人類の世界観は、因果、つまり原因と結果が時間的な線で結ばれるのだが、
彼らは、原因と結果を瞬時に見渡し、その間を最小距離で結ぶという世界観を有している。


17世紀のフランスの数学者フェルマーの定理では、「光は時間が最小になる経路を通る」とされる。
光は水に入ると屈折して経路を変えたりするのに、光は常に’スタート時点で’最短の経路を選ぶ。
途中で経路を変更することはない。
つまり、
「光は発せられる前からその目的地を知っていなければならない」
ということになる。この物理学の定理と、ヘプタポッドたちの世界観はほぼ一致する。


ものごとの最初から最後までを知っている彼らは、すべてが「そうなっていく」ことを決して避けないし、
そもそも未来とか過去とか、自由という概念すらない。図形のような特異な言語は、それを表現しているだけなのだ。


主人公はその言語を自在に扱えるレベルまで習得していくのだが、
全く異質な言語は、彼女の世界に対する認識のかたちそのものを変えていく・・・
上記に書いたような、ヘプタポットの世界観になっちまうのである!

ここでこの(2)の物語が(1)の物語に繋がっていく予感が湧いてくるわけですね!

結末が気になった方は是非とも書店へ♪

感想書く体力尽きた。
ひとつだけ言うと、科学を手がかりにテツガクする小説家というのは、いまほとんど見当たらない。
科学も文学も、登山口は違っても目指す頂は同じであってほしい僕としては、この作家との出会いは喜ぶべき事態でした。

次回、本作に所収された別の小説について書いてみます。


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読書感想 「ショートカット」(河出文庫)柴崎友香 [Book]


「空間の遠く隔たった相手への想い」というか、こころの動きを描いています。
この作者は物語を構成するよりも、'物語の展開''を綿密にするとおろそかになりがちな、登場人物の心の様態、「気分」のようなものを描出することに長けていますね。

というか、数多の小説の作者が無自覚に前提としている「愛」や「恋」という表現に回収されない、かたちの定かでない、安易なことばに回収することを拒むべき「思い」を表現している。
これは感性のように見えて、実は小説で表現するということにたいする批評性というか、自覚だと思います。

俗に言う「美文」ではないので、おじさん「文学者」には評価されないでしょうが、この作者はおじさんなんかハナから相手にしていません。
(昭和的「美文」なんかで現代の若者の気分が伝わるはずがない)

四つの断片のような短編が収録されていますが、すべての話に登場する、「東京に住む大好きなヒト」を思いつづけている青年がキーとなっていて、なかなかおもしろいです。

ほんとうにほんとうに会いたい気持ちがあれば、距離なんか関係ねー!
って、全編を通して、直接は言ってないですが、本気で言っています。


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