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世界と対峙する言葉――『切りとれ、あの祈る手を』 佐々木中 / 『神的批評』 大澤信亮 [Book]


切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

  • 作者: 佐々木 中
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2010/10/21
  • メディア: 単行本



神的批評

神的批評

  • 作者: 大澤 信亮
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/10
  • メディア: 単行本



2010年の終わりごろに読んだ、個人的にとても面白かった文芸批評本の2作に関して、ちょっと書いてみたいと思います。

『切りとれ、あの祈る手を』佐々木中 (河出書房新社)
『神的批評』大澤信亮(新潮社)

各評論の内容について詳細に論じる能力は私にはありません。ですので書評などという烏滸がましいことはできません。とても面白く読んだこの2冊への「肯定」を表現してみます。



「文学」というものは(あるいは他のジャンルの表現であっても)、それが物語であろうと批評であろうと、作り手が、世界から/世界を見つめる自己から、「何を」「どう」見出して(見出そうとして)いるのか、その表現であり、表明であるといえます。

書かれたテクストが、テクストを孕んだ表現者たちが、思考のサーチライトをどこへ向けて放っていたのか。そこに照らされた世界は、どんな可能性とともに語られるべきものなのか。
本を読むこと、まさに、ただそれ自体の崇高な体験によって、世界そのものを、どのように革めることが可能なのか――、
佐々木中氏も大澤信亮氏も、語りの質、題材、斬り込み方は異なりますが、古今、東西の宗教家、哲学者、文学者、芸術家たちの革命や論考、創作を通して、ほとんどの文芸批評がそうであるように、この眼前の世界と対峙するためのあり方について、論じています。



ある学問体系の言葉をもって語ることが、べつの学問の言葉をもって語ることよりも「現実」に対応している、などということは、特にないと思います。情況を分析し、対処療法的に現実への実践の道筋を提示することだけが、アクチュアルな思想ではない。
現実がどのようなものとして個人に迫っているのか、世界にどのような意味を見出すのか、それはもちろん果てしなく多様であるわけですし、どんな娯楽からどのような影響を受けて世界観や人生観を更新していくのか、その糧となる媒質それ自体に、優劣という尺度は必要ありませんからね。

『神的批評』で繰りかえし語られる、他者(他人、社会、自然)との接触や対話が必ず伴うはずの自己言及性と粘り強く向かい合う、という姿勢だって世界と対峙することのひとつの方法であるし、『切りとれ~』で砂嵐のような語調で語られる、ダンス、音楽、歌、服飾、詩、絵画、映画、それらのテクストを「読」み、みずからの生を「読んでしまった」者として「書き変える」、その営みに革命との連関を信じるという、泥くさい決意もまた、この現在を生き抜くための、ひとつの魅力的なスタイル(思想)であると思います。

通信技術と情報コンテンツを受容するためのアイテムやツールが発達し、娯楽が多様化/趣味のジャンルが細分化しつづけ、さらにそれらが再接続や統合をしてみせたりもする複雑な消費状況のなかで、批評や思想、文学の射程もいろいろな方角を向いていて当然だし、それが書籍業界を豊かにするのならば歓迎すべき事態だと思います。
佐々木さんの本が人文書としては相当な売り上げを記録しているという事実は、文化の爛熟した状況「だからこそ」、文芸という領域からいま・ここを解読したりいま・ここへ与えたりすることを探る言葉というものを、新鮮に受けとめた人が少なからずいたということの証左でしょう。それらの人びとの感性をべつの批評軸から否定することには、何の意味もないと思います。(あるいはもしかしたら、「ポストモダン」という魔法の言葉による、目的がどこにあるのかよくわからない執拗な解体作業に辟易している人にウケちゃっただけなのかもしれませんが)



1900年に没したニーチェは、没後のいかなる時代も読まれ、また語られて、人の心に何かしらの響きを残しているようです。言語も文化も宗教も異なる、実にさまざまな場所で。

たとえばヴァージニア・ウルフの小説作品をさまざまな時代の現在へ「送る」批評の言葉で、それぞれの時代の「現代人」の感受性に潤いをもたらすこと、そこから個と個のつながり、個と世界との関係を変革せしめることは、もちろん可能です。古くくたびれたテクストを何度も何度もいまへ送り届けることも、現実的な思想の実践です。
大澤氏は魯山人や賢治をそのように届けたかったのだと思いますし、佐々木氏は文盲率90%のロシアで書かれたドストエフスキーをみろ、滅びてなどいないではないかと叫ぶのでしょう。
「1995」とか、「9.11」とか「ゼロ年代」とか「リーマン以降」とか、そういう現実を解読する鍵のようなものに直接接続しなくても、くり返しますが、眼前の世界と対峙することは可能です。これがこの文芸批評の本2冊を肯定する理由です。

大澤信亮氏は『神的批評』の刊行時、こうコメントしています。

「僕は社会批評もサブカルチャー批評もやりました。しかし最終的に行き着いたのは文芸批評だった。ジャンルに優劣をつけるつもりはないですが、僕にとっては、文学こそがもっとも刺激的で、現実的だった。そこにはマンガにもゲームにもネットにも満たされない何かがあると感じます。とはいえいわゆる「文学好き」ではありません。むしろそういう人に対しては「他に面白いことがあるのに」とさえ思います。しかし、そんな自分が心から本気になれるのが、文学だった。だから僕は、『バガボンド』や『ジョジョの奇妙な冒険』や『HUNTER×HUNTER』や「ニコニコ動画」や「2ちゃんねる」よりも面白い批評を、本気で目指しています。マンガやゲームやネットを論じているわけではない。すでに一定のマーケットがあり、それについて論じれば数が稼げるという話ではない。しかし、それらが提示する物語や倫理やリアリティを超える言葉を実現することが、それらに対する真の意味での批評になると考えているのです」

周波数帯の異なる感性を持った人間の、「おもしろい」の中身を、みずからの作品で塗りかえること、変容させること――いち表現者のモチベーションとして、これに勝るものは、少なくともぼくは思い浮かびません。「娯楽」のコンテンツを、自分の作品に取り替えさせてしまう、そこを目指すことに何の滑稽さもない。それが「終わった」といわれるジャンルの表現であっても。

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