『苦役列車』(西村賢太) 『母子寮前』(小谷野敦) [Book]
2011年上期の芥川賞作、そして候補作を読んだので感想を。2人とも、僕ははじめて読む小説家です。
(朝吹真理子『きことわ』については別途書きます)
『苦役列車』(西村賢太)
あらすじ、無いようでまとめやすいですね。「日雇い労働で暮らす、怠惰で、性格のひねくれた青年の日々」ですね(笑)ほんと、基本的に、これだけです。面白く読みました。
何が面白いのか。
端正な文章と、「ゲスい」(失礼かもしれませんが)内容のギャップですね。この組み合わせは阿部和重さんの作品にも感じますが、妙な滑稽さが醸し出されてくるんです。
また、天性のものなのか意図的にそうしているのかわかりませんが、作品に「重み」を与えようというような「ねらい」が無い。つまり社会性とかイデオロギーのようなものに安易に回収されない強度というか、そんなものどこ吹く風といった感じで、飄々と書きたいことを書く強さを感じました。この作者のことを「格差」とか「プロレタリアート」とかのわかりやすいキーワードでくくることは、無駄でしょうね。
私小説ということですが、ちゃんと自分を「・・・ダメだこいつw」と客観視することで渇いた笑いをところどころ演出しているので、「こういうふうに仕上げている」ものですね。
作業場へ向かう労働者たちのバスの中でカップサラダの汁をチューチュー啜っている男にイライラしたり、あまりの女日照りのせいで別れた「ブス」の排便まで愛おしい、なんて描写は、なかなかできないと思います(笑)このへんの突き抜け方は痛快ですらありますね。
『母子寮前』(小谷野敦)
私小説というカテゴリをあえて使って比すれば、こっちのほうがより完全な私小説です。自分を客観視する「セカンド自分」を感じない。つまり起こったことを「そのまま書いている」感がさらに強い。
母親が癌を告知されてから亡くなるまで(四十九日法要まで)の介護ドキュメント、と思いきや、こちらは社会性とかではなく安易に「感動」に回収されない、なんだか得体の知れない手触りがあります。
というのも、母の癌の告知当初は「悲しみ」の波にうちひしがれている主人公なのですが、他者性という意味で「怪物」のような父親への猛烈な「憎しみ」と、若い新妻ができたことの幸福で、心のなかの「死にゆく母親」の占める領域が、なんとなくしぼんでいくように見えるのです。僕が感じたのは、喪失を目前にしたそのときにも、悲しみだけじゃない、比率の安定しない、いろいろな感情をかかえて生きているという人の心のリアリティです。
読んでいると感ずるこういう「主人公の心の動き」を、自己分析(読者に説明)するわけでもなく、「思ったこと/起こったことをそのまま書いている」(ように見える)せいで、つまり下手な作為なぞハナから捨てるその姿勢が、私小説作家としては、ちょっと見たことがないレベルなんじゃないかと思うわけです。強烈な個性です。
母親がまだ生きているとき、病院の関係で、主人公がとある街を訪れるのですが、「母が死んだら、もう二度と来ないかもしれないこの街は、特別に記憶されるのだろう」と考える、とてもかなしく美しい描写(これも実際に思ったんでしょうね)がよかったです。
あと、癌の告知から死別までで、残される家族にとって最も「感情的に」辛い時期は、告知段階なのではないか、と、読んでいて思いました。ショック期というか。実際的介護を繰り返しているうちに、また衰えていく肉親の姿を見続けるうちに、介護の辛さはあるでしょうが、残された者は、失う覚悟をゆっくりと堅くしていくのでしょうか。
(朝吹真理子『きことわ』については別途書きます)
『苦役列車』(西村賢太)
あらすじ、無いようでまとめやすいですね。「日雇い労働で暮らす、怠惰で、性格のひねくれた青年の日々」ですね(笑)ほんと、基本的に、これだけです。面白く読みました。
何が面白いのか。
端正な文章と、「ゲスい」(失礼かもしれませんが)内容のギャップですね。この組み合わせは阿部和重さんの作品にも感じますが、妙な滑稽さが醸し出されてくるんです。
また、天性のものなのか意図的にそうしているのかわかりませんが、作品に「重み」を与えようというような「ねらい」が無い。つまり社会性とかイデオロギーのようなものに安易に回収されない強度というか、そんなものどこ吹く風といった感じで、飄々と書きたいことを書く強さを感じました。この作者のことを「格差」とか「プロレタリアート」とかのわかりやすいキーワードでくくることは、無駄でしょうね。
私小説ということですが、ちゃんと自分を「・・・ダメだこいつw」と客観視することで渇いた笑いをところどころ演出しているので、「こういうふうに仕上げている」ものですね。
作業場へ向かう労働者たちのバスの中でカップサラダの汁をチューチュー啜っている男にイライラしたり、あまりの女日照りのせいで別れた「ブス」の排便まで愛おしい、なんて描写は、なかなかできないと思います(笑)このへんの突き抜け方は痛快ですらありますね。
『母子寮前』(小谷野敦)
私小説というカテゴリをあえて使って比すれば、こっちのほうがより完全な私小説です。自分を客観視する「セカンド自分」を感じない。つまり起こったことを「そのまま書いている」感がさらに強い。
母親が癌を告知されてから亡くなるまで(四十九日法要まで)の介護ドキュメント、と思いきや、こちらは社会性とかではなく安易に「感動」に回収されない、なんだか得体の知れない手触りがあります。
というのも、母の癌の告知当初は「悲しみ」の波にうちひしがれている主人公なのですが、他者性という意味で「怪物」のような父親への猛烈な「憎しみ」と、若い新妻ができたことの幸福で、心のなかの「死にゆく母親」の占める領域が、なんとなくしぼんでいくように見えるのです。僕が感じたのは、喪失を目前にしたそのときにも、悲しみだけじゃない、比率の安定しない、いろいろな感情をかかえて生きているという人の心のリアリティです。
読んでいると感ずるこういう「主人公の心の動き」を、自己分析(読者に説明)するわけでもなく、「思ったこと/起こったことをそのまま書いている」(ように見える)せいで、つまり下手な作為なぞハナから捨てるその姿勢が、私小説作家としては、ちょっと見たことがないレベルなんじゃないかと思うわけです。強烈な個性です。
母親がまだ生きているとき、病院の関係で、主人公がとある街を訪れるのですが、「母が死んだら、もう二度と来ないかもしれないこの街は、特別に記憶されるのだろう」と考える、とてもかなしく美しい描写(これも実際に思ったんでしょうね)がよかったです。
あと、癌の告知から死別までで、残される家族にとって最も「感情的に」辛い時期は、告知段階なのではないか、と、読んでいて思いました。ショック期というか。実際的介護を繰り返しているうちに、また衰えていく肉親の姿を見続けるうちに、介護の辛さはあるでしょうが、残された者は、失う覚悟をゆっくりと堅くしていくのでしょうか。
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