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村上春樹『1Q84』 3.物語が対抗すべきものとは [Book]


1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/05/29
  • メディア: ハードカバー




村上春樹『1Q84』(BOOK1、BOOK2)の内容について、具体的に踏み込んでみます。長いです。

観念そのもののが服を着たような、ゲームのキャラクターのような人間が、観念そのものを生み出す暗黒的な巨大な存在を相手に戦う、という物語の『1Q84』ですが、人間同士が交わるときに生ずるコミュニケーションの摩擦を無視してそのような物語を描かれても、僕はそこからポジティブな何かを感じることができません。

これが僕がこの物語を肯定的にとらえられない理由ですが、では前回「サイキック・バトル」なんてひどい言い方をしてしまったこの物語とはどのような物語なのか。ひとつ腕をまくって、振り返ってみましょう。
# ネタバレあり

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まず、この「物語」は、とても説明的に語られているため、これまでの村上春樹の小説よりよっぽとわかりやすいです。物語というには、もの凄く説明的です。「ねじまき鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」では若干途方に暮れさせられたんですが、あれらの作品も、つまりはこういうことが言いたかったのね、ということが、僕の中では明らかになった気がしました。エルサレム賞のスピーチ「壁と卵」を踏まえると、さらにわかりやすい。

「神話や原理主義に対抗する為に物語を立ち上げる」のが小説家の役割だ、という村上春樹自身のコメントが、そのままこの『1Q84』の物語になっています。そして「空気さなぎ」という作中小説も、そのことを更に自己補強する物語です。そういう意味では、この小説は、村上春樹自身と数多の読者双方において、ひとつの結節点となる作品ではあると思います。(ご丁寧に、物語に対して向けられるであろう批判にも対しても、先回りして予測しています)

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この文章は、既に読了したひとに向けて書きますので、あらすじ的な、物語の説明はしません。物語を分解するのは気持ちいいものではないですが、「神話や原理主義に対抗」しうる物語がいかに書かれているのか、を僕なりにまとめたいので、強引に整理だけはしてみます。
# 読み返したりはしないし手元にないので、覚えているまま書きます

「青豆の物語」「天吾の物語」がパラレルに進行しているように見えて、軸はそのふたつじゃないです。

・「リトル・ピープル」と「物語」の戦いの物語
・ 青豆と天吾の愛の物語

だと思います。さて、では同時に一気にまとめます。繰り返しますが、既に読んだヒト向けです。
まず用語整理。僕なりの定義も入っています。当然解釈は他にも、いくらでもあるでしょう。

パシヴァ=知覚者 レシヴァ=受容者
マザ=意識 ドウタ=集合的無意識
わざわざボカしているものを限定したくないけれど、マザは善意(卵)・ドウタは悪意(壁)とも言える

・すべての存在は実はマザとドウタを併せ持っている
・人間はすべて同じドウタを共有しており、ドウタの集積が「リトル・ピープル」である
・リトル・ピーブルは「空気さなぎ」を作り、空気さなぎの中に出来上がる「マザから切り離されたドウタ」を通路にして、その力を世界に及ぼす

複雑なようで整理してみるとわかりやすい設定ですが、まだ細かな複線や設定はいろんなところに仕掛けられてあった気がします。謎だらけですが、まあ、人物や団体を僕なりにあてはめていくと、物語の骨格は以下のようなものになると思います。

・善なるものを志向したマザ的なコミューン「さきがけ」は、暴力を志向したセクトを切り捨てた
・そのかわりドウタの集積たるリトル・ピープルの力が、ふかえりのドウタをパシヴァとして現れ出る
・パシヴァ(ふかえり)のドウタとレシヴァ(さきがけリーダー、ふかえり父)が性交することでリトル・ピープルの力が増大し、「さきがけ」はリーダーを核にダークなものを内包していく
・マザとしてのふかえりは「さきがけ」を脱出、天吾というレシヴゥと出会い、一遍の「物語」を世に送り出す。結果リトル・ピープルという存在は明るみのもとにさらされてしまう
・ここで「リトル・ピープル vs 物語」という構図ができあがる
・暴なる男性をこの世から消している暗殺者/青豆は「さきがけのリーダー」の行為(老婦人等の常人から見れば少女レイプ)に制裁を加えるという目的から核心に迫っていく 
・ダークな存在であり続けてこそ力の影響を強めるリトル・ピープルにとって、異なる方法で自分たちを照射する天吾と青豆は邪魔者であり、それぞれの親しい存在を消すことで敵の戦意をくじこうとする
・青豆はみずからの命を差し出す必要を了解した上で、レシヴァたるリーダーを殺害し、リトル・ピープルの力を、一時的に機能停止させる。結果天吾へ迫る危機も遠のく
・リトル・ピープルの一時撤退した瞬間(青豆がリーダーを殺害した瞬間)、マザのふかえりは天吾と交わることで、天吾に青豆の存在を確かに実感させる
・死に際す父の病床にて、リトル・ピープルが青豆のドウタを天吾の眼前に出現させるが、その瞬間青豆は自ら命を断ったのだろう、ドウタは消えた
・青豆は天吾への愛を胸に死に、その死を知らない天吾は青豆への愛を胸に生きることを決意する
・天吾は自分の「物語」を書き続けることで、また何らかの形で出現するであろうリトル・ピーブルに対抗していくのだろう

・・・疲れた。僕はまあ、こんな感じにこの物語を解釈しました。さっきも書きましたが、当然解釈はいくらでもあるし(僕もいくつか別の解釈がある)、複線や詳細設定はまだまだある。とにかく感想をいったん、簡潔にまとめます。


・「リトル・ピープル」と「物語」の戦いの物語
→ 村上春樹が実際にインタビューで語ったこと、「原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げること」そのまんまの物語。物語の調理を施された、彼自身の思想。
 
・ 青豆と天吾の愛の物語
→ 愛を充分に知らず(わりとシンプルで強いトラウマを抱えたまま)いびつに成長した青年男女が、「愛すること」「求められていることを知ること=愛されること」を知り、死と生を引き受ける一種のロマンス。愛こそがすべて。

この物語の内部で起きている個々の事象やメタファー、つまりドウタとかパシヴァとか空気さなぎが何だとか、そういうことにはあまり興味がありません。青豆と天吾の愛の物語にも、そこには人間的なコミュニケーションがないのでまったく感情移入できません。僕は謎解きなんて面倒なんで大嫌いです。実はRPGも、中学のときドラクエを一瞬やっただけで、手を出したことがありません。「原理主義やある種の神話性に対抗する物語なんじゃないかな」で充分です。
じゃあ、どう対抗しうるんだ、ということには興味があります。そこを考えつつ、自分の考えを乗せてみようと思います。散漫な文章になると思いますが、ご容赦ください。

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構想のきっかけはオウム真理教うんぬんと村上氏は言っていますし、確かにオウムを想起させる団体は出てきますが、逮捕時に5000万(だっけ)の現金を抱えて隠し部屋に丸くなっていた麻原彰晃みたいな「俗」の側面は描かれていないし、むしろ村上春樹はオウム真理教的なるものを、物語の材料として自分の言いたいことの土俵に引っ張りあげ、自分の思想からハミ出ないように都合よく解釈しただけのような印象です。少なくとも僕が読んできたオウム関係の書物から僕なりに想像した彼らの本質とは、まるで異なります。地下鉄サリン事件の被害者と加害者のコメントを採集し、あの事件とオウム教団について長いこと考え続けてきて、結局お得意のメタファー、「羊」や「やみくろ」とよく似た「リトル・ピープル」みたいなものに持っていくところがさすが物語作者というか、いかにも村上春樹な感じすぎて残念といいますか。あのスピーチでも、たぶん僕はそれと同じものを感じたんでしょうね。自分が言いたいことに現実を押し込めてないか?みたいな。

オウムもエホバの証人も単にモチーフではあるんでしょうが、圧倒的多数の読者に届く作品のなかであのように語られることは、「本当に」オウムのことを研究してきた学者や被害者の弁護士からしたら、おいおいちょっと・・・となる気がします。被害者や元信者への「本当の」救済活動に比べたら、物語の力なんてたいしたものじゃありません。実際事件には関係のなかった僕を含む多数のひとたちへ向けて個性的な波紋を投げかけることにはもちろんなりますが、それにしたって、カルト宗教の例を出さずとも、善は悪を、悪は善を内包していることなんて、わかりきっています。麻原彰晃も最初はヨガの修験者でした。体制や「システム」から逃れた集団が、別の体制や「システム」と化していく。純粋な善意が角度を変えたら悪意の顔をしている。そんなことはみんな知っています。リトル・ピープルの媒体となり世界に不吉を拡散し、対抗勢力に自分の娘を据え、すべてを承知し最後は救済の方向へ体を倒す「リーダー」と、善なるものを信じ悪だと判断したDV男を殺害している青豆に、倫理的決着なんてつけられません。これも読者は知っているでしょう。僕は、ここに出てくる組織とオウム真理教とを結びつけることはしません。

それで、この『1Q84』という物語が、リトル・ピープルだかビッグ・ブラザーだか壁だかシステムだか、言い換えると、原理主義や神話や集合的無意識(ググってね)、あるいは弱き者の心の集積、さらには「人間を乗り物としている遺伝子をさらに操縦している大いなる意思」みたいなものに対抗しうるかというと、対抗しうるのは、結局は「物語」そのものというよりも、物語の核にある思想なわけですよね(否定する方はたくさんいるかもしれませんが)。
ストーリーの衣をはがしたら、出てくるのはインタビューとかで語っていることそのものじゃないか、と思いました。物語のグローブを外して殴ってほしいと思っている読者も多いんじゃないでしょうか。確かにインタビューやスピーチは消えても、物語は残ります。けれど物語の中から更に風化せずに残るのは、寸鉄の箴言なのではないでしょうか。多くの古いアフォリズムもこの世には膨大に存在し、人の心に響き続けています。
少なくとも、ビッグ・ブラザーのようなお方がいるご近所の国や、本当にリトル・ピープルのようなモノが実在しそうなミクロネシアとかの南の途上国なんかには、こんな物語は通用しないと思います。せいぜい、読み物として消費されるだけでしょう。村上春樹は中国の若者の間でも流行りはじめているらしいですが、それは数十年前の日本みたいになりつつある都市部だけなんじゃないだろうか。中央の政治の実態なんてまるで見えない、電気も引かれていない寒村の田園の民には、まるで金に不自由しない人物しか出てこない小説なんて、これっぽっちのリアリティもない。「システム」なんて言われたって、意味不明です。

では「9.11」で現実が映画になってしまったアメリカや、日常が惨劇の舞台になった「1995年」の神戸や霞ヶ関以降を生きる、現実と非現実の境界がグラついているとリアルに感じた「現代人」にとって、この物語の思想がどう有効なのか。僕にはまるでわかりません。少なくとも、僕は「9.11」や「1995」以降、というくくりで何かを考えたりしていません。つまり僕の実生活と価値観においては、この物語が入ってくる隙間がありません(あ、結論みたいなこと言いました)。
もし僕が現実に、何かの暴力や災害で大切な存在を本当に失っても、「システム」やリトル・ピープルなんて言われてもピンと来ないだろうし、極端なことをいえば、どちらかというと物語じゃなくて信仰の方を向く可能性のほうが高いです。もちろん優れた文学作品は、絶望からひとを救済する力はあるとは思いますけど。「システム」なんていうのは、学者が高みから発しているような言葉に聞こえます。

もし今の先進国で、「物語」を武器に何かに対抗すべきなのだとしたら、僕は、その対象は、はっきりと、「資本主義社会」だと考えています。(あれ?村上春樹も昔はそうだったっけ?)

第二次大戦の敗戦からまず衣食住をたて直し、大きな希望と共に高度成長があり、イデオロギーの闘争の時代(と挫折)があって、80年代に入って円も強くなって、みんなで働けば豊かになれる・みんな欲しいものをどんどん買って豊かになろうぜ、という1億総中産階級化がある程度達成されて、物的豊かさに満たされた社会のなかで(メインカルチャーという「ビッグ」からサブカルチャーという複数の「リトル」に文化的にも変容していったりして)「モノはあるけど豊かさを実感できない」「大きな希望がない」「競争ばかりでなんだか生きづらい」と感じた人間の一部が、カルトに走ったりしたと思うんです。僕はオウムは、少なくとも形成段階に集った若者についてはその文脈で考えているし、ついでに言うと、堀江貴文みたいな怪物も、オウムとは逆の意味で、つまり精神性の深化ではなくて、精神性の欠如という形で、資本主義社会の土壌から生まれ出た、日本社会の新人類なんだと思います。

モノとカネで満たされることにはどうしても幸福を見出せない、センシティブで内向的な感受性を持った迷える羊の受け皿という意味においては、カルト宗教も、村上春樹の小説も、似たような役割を果たしていたんじゃないか。
その自覚から村上春樹はオウム問題にシンパシーを感じていたんだと思っていたんですが、どういういきさつか知りませんが「ねじまき鳥クロニクル」あたりから露骨に「各個人の井戸の底はひとつの水脈」みたいな、ユングみたいなことを言い出して、諸問題をそこに結びつけて考えるようになり、今回の『1Q84』でその思想が極まったというか、どちらかというと「ねじまき鳥」と「カフカ」を圧縮したような、「物語」の豊かな可能性とひろがりを逆にそぎ落としたような、説明的な、より結晶化された思想的な作品が、出来上がってきました。
そういう意味では、次なる長編がどこへ向かうのか、気にはなります。こうして僕は村上春樹の小説を読み続けるのか(笑)

で、
何が言いたいのかというと、今、大きな物語をつくるのなら、対抗すべき相手はわけのわからない闇なんかじゃない。これは完全に僕個人の思想というか、現実を生きるためのスタンスです。描かれ、紡がれ、流布されるべきは、モノとカネに対抗する価値観を直接的に注ぎ込んだ、日常の輝きを地に足をつけて描いたような、物語というよりもささやかな「小説」なんじゃないかと、こう思うわけです。
毎度おなじみのメタファーであいまいめかして、センシティブな内向性を持った人たちへ向けたサプリメントや精神安定剤みたいな作用を与えるんじゃなくて、愛する者とつつましやかに暮らす平坦な日常の美の価値を、新鮮な野菜や冷たい水のように与えるべきなんじゃないか。
・・・モノやカネだけじゃないぜ、という価値観を、「Q」なんてつかない世界の日常を題材に言い続けることが、オウムに走った人たちを減らすことにつながるんだと、僕は信じているので。


まあそんなわけで、『1Q84』が自分にはこんなに響かなかった、ということを物凄く長い文章で書いてきたわけですが、
天吾と青豆の物語において「愛する者の存在」こそが、「壁」に立ち向かう力になるのだ、というシンプルかつ力強い表明がされたことについては、全面的に同意します。
結局はそれしかないんですよね、僕たちの世界でもっとも大切なものは、と僕も思うわけです。・・・あれ、つまり、最終的にはこの物語から僕も何かのひとかけらを受け取ったことになるわけだ。ま、それはそれでよし。
タグ:村上春樹 1Q84
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