映画 『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』(侯孝賢) [Movie]
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侯孝賢(ホウ・シャオシェン)は、今、一番好きな映画作家になりそうな予感です。
僕のなかではクストリッツァ、キアロスタミ、アンゲロプロス、カウリスマキと、完全に並ぶか、凌駕しようとしています。
1年ほど前に「百年恋歌」の感想として、「ホウ・シャオシェン作品の時間の流れ方、なにかうっすらと白濁した物質が、透明な液体の底にゆっくり、ゆっくりと沈殿していくような時の進み方が好きです。人物たちの激しい感情が、激しいまま表面に出てこず、空間へ満ちていって独特の倦怠として滲み出ている感じが好きです。物語の抑揚はありませんが、詩情に溢れた、けだるくもせつない映像を愉しめます」と書きました。
今回の「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」も基本的な感想はまったく同じですが、さらに大きな感動を覚えました。
観ているうちに、「この作品を観ていることへの喜び」みたいなものが、もくもくと積乱雲のように湧き立ってきました。これだけで観た甲斐があったというものです。細かい論評など、もはや不要です。ですので作品の感想からはちょっと逸れます。
映画に限らず、人の創造した作品から得る、僕にとっての大きな「感動」というのは、「自分の生(あるいはこの世界全体)を肯定する力」を、その作品に触れることで自覚できる、そういう状態です。何か楽器を弾きたくなったり、歌が歌いたくなったり、文章を書きたくなったり、誰かに電話したくなったり、子供を抱きしめたくなったりする。そういうエナジーが、くりかえしのたとえになるけれど、真夏の積乱雲のように湧いてくる。精神状態として、それはひとつの理想の状態です。精神がそのような高次の領域に浮上する状態を求めることが、書物や映像や音楽にたいして自発的であることの理由のひとつだという気がします。なので、「それ」を与えてくれた作品に接したときは、無上の悦びを感じます。
本作は僕にとって、そういう作品のひとつになりました。
物語のようなものは、ほとんどありません。パリのマンションで暮らす母子家庭の日常にカメラが入り込んだような、抑揚に欠いた描写が、「ワンシーン・ワンカット」の手法で淡々と描かれます。冒険もドラマも闘争もカタルシスもありません。僕たちが良く知っているはずの日常がそこにあります。
「良く知っているはずの日常」を愛することに通ずる道を拓くことが、芸術の力の重要な役割だと思っています。どんなジャンルの、どれだけ前衛的な表現であろうと。僕たち個々の時間のほとんどは日常によって成り立っていますが、日常の輝きに足を止め、目を向けるきっかけは、意外と多くないものです。
・・・日常を描く表現者はわりといますが、侯孝賢の、この、才気が鼻につかない自然さはなんなんだろう(河瀬直美とか、鼻について感じ悪い)。これが成熟というものなんだろうか。
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