面白いもの、つまらないもの (1) [Life]
とりとめのあるような、ないようなことをつらつらと書いてみようとおもいます。
わりと「当たり前やんそんなの」みたいな内容になるかも。
ぼくは映画とか小説とか若いころから好きでたくさん観たり読んだりしているので、当然自分の好みというものがある。
創作物―娯楽作品や芸術作品などを長いこと趣味として愉しむということは、自分という人間を知ることでもある。「深める」ものであるのかもしれないが、何をもって「深い」とするのかというのかはわりと単純に言えないところがあるので、ここでは書きませんけど。
まあ、自分を知るというのはたとえば、自分の心は何を求めている(いない)のか、どのような表現に希望やエネルギーのようなものを与えられる(られない)のか、自分はどのような世界観で世の中をみつめているのか(どのような世界観に共感しないのか)、というようなことですね。
ぼくは人生の「出来事」、「実体験」として、人の創作したものを味わっている。自分は人の創作した作品で「かたち作られてきた」部分がたくさんあるんだなぁ、と、とても強くおもう。生身の人間との数多の関係のなかで培われたものより、もしかしたら大きいんじゃないか?ってぐらい。
で、よく「好奇心というものが尽きることがない」みたいな言葉がポジティブに使われるのを見かけるけど、真新しい何か、未知の何かへの好奇心というものは、なんだかじわじわ減っている気がする。
たくさん観たり読んだり聴いたりしてくると、もう、幅広いジャンルの本をたくさん読むことが自分にとって有益なことだとはそんなに思えなくなってくる。何が自分を楽しませてくれるのかは知っているんだから、有限な時間のなかで、好きなものだけに触れていたい。同じものをくり返し観る、読むでもいい。
こんな「感受性を持っている俺」を楽しませてくれそうなものを嗅ぎつける能力みたいなものがあって、そういう意味では「好きそうなもの」への好奇心はあまり衰えない。
本当に好きな表現者、作り手というのは、ちゃんと選別してみると、おそらく数えるほどしかいない。
もう亡くなっている人もいるけど、今パッと思いついた人を挙げると、、
文筆家では武田百合子や宮沢賢治、漫画家では高野文子や五十嵐大介、映画監督ではクストリッツァやキアロスタミ、音楽家ではジョアン・ジルベルトやカエターノ・ヴェローゾ、絵画ではパウル・クレーなど。
特には書かないけど、共通した傾向があるようで、そんなにないような気もする。でもなんだか自分のなかでは、「薄い水色」のようなイメーシ的で通底している。あ、あと、やはりその世界観、人生観、つまりそのひとの「まなざし」が大好きなものばかりだ。
一度、これらの、長く深く「ぼくに関わってきた」人たちについて、ひとりひとり、ていねいに論じてみたいとおもう。ヒョーロンではなく、ラブレターのようなものになるかもしれない。
ちなみに宮沢賢治さんの詩でいちばん好きなのはこれだ。
青空の果ての果て
水素さえあまりの希薄な気圏の上に
「わたくしは世界の一切である。世界は移ろう青い夢の影である」
などこのようなことすらも、あまりに重くて考えられぬ
永久で透明な生物の群れが棲む
思いきり水色のようなイメージですね。
言葉の力というのはすごい。たったこれだけの、ほんの数行から、すさまじいイメージのふくらみを感じさせる。ゾクゾクしてくる。宮沢賢治さんは、岩手の農村から星雲までも、言葉を駆って飛翔できるお方だ。
彼のことばはぼくをいろいろな時空に連れていく。
・・・今日はここまで。
いつになるかわからいけど次回は、自分がなぜそれらの人、作品を好きなのか。そこについてざっと簡単に言葉にしてみようとおもう。こんなことする意味もよくわからないけど、書きたいから書いてみる。
とりあえず本だけ、Amazonのリンクを貼っておこっと。
わりと「当たり前やんそんなの」みたいな内容になるかも。
ぼくは映画とか小説とか若いころから好きでたくさん観たり読んだりしているので、当然自分の好みというものがある。
創作物―娯楽作品や芸術作品などを長いこと趣味として愉しむということは、自分という人間を知ることでもある。「深める」ものであるのかもしれないが、何をもって「深い」とするのかというのかはわりと単純に言えないところがあるので、ここでは書きませんけど。
まあ、自分を知るというのはたとえば、自分の心は何を求めている(いない)のか、どのような表現に希望やエネルギーのようなものを与えられる(られない)のか、自分はどのような世界観で世の中をみつめているのか(どのような世界観に共感しないのか)、というようなことですね。
ぼくは人生の「出来事」、「実体験」として、人の創作したものを味わっている。自分は人の創作した作品で「かたち作られてきた」部分がたくさんあるんだなぁ、と、とても強くおもう。生身の人間との数多の関係のなかで培われたものより、もしかしたら大きいんじゃないか?ってぐらい。
で、よく「好奇心というものが尽きることがない」みたいな言葉がポジティブに使われるのを見かけるけど、真新しい何か、未知の何かへの好奇心というものは、なんだかじわじわ減っている気がする。
たくさん観たり読んだり聴いたりしてくると、もう、幅広いジャンルの本をたくさん読むことが自分にとって有益なことだとはそんなに思えなくなってくる。何が自分を楽しませてくれるのかは知っているんだから、有限な時間のなかで、好きなものだけに触れていたい。同じものをくり返し観る、読むでもいい。
こんな「感受性を持っている俺」を楽しませてくれそうなものを嗅ぎつける能力みたいなものがあって、そういう意味では「好きそうなもの」への好奇心はあまり衰えない。
本当に好きな表現者、作り手というのは、ちゃんと選別してみると、おそらく数えるほどしかいない。
もう亡くなっている人もいるけど、今パッと思いついた人を挙げると、、
文筆家では武田百合子や宮沢賢治、漫画家では高野文子や五十嵐大介、映画監督ではクストリッツァやキアロスタミ、音楽家ではジョアン・ジルベルトやカエターノ・ヴェローゾ、絵画ではパウル・クレーなど。
特には書かないけど、共通した傾向があるようで、そんなにないような気もする。でもなんだか自分のなかでは、「薄い水色」のようなイメーシ的で通底している。あ、あと、やはりその世界観、人生観、つまりそのひとの「まなざし」が大好きなものばかりだ。
一度、これらの、長く深く「ぼくに関わってきた」人たちについて、ひとりひとり、ていねいに論じてみたいとおもう。ヒョーロンではなく、ラブレターのようなものになるかもしれない。
ちなみに宮沢賢治さんの詩でいちばん好きなのはこれだ。
青空の果ての果て
水素さえあまりの希薄な気圏の上に
「わたくしは世界の一切である。世界は移ろう青い夢の影である」
などこのようなことすらも、あまりに重くて考えられぬ
永久で透明な生物の群れが棲む
思いきり水色のようなイメージですね。
言葉の力というのはすごい。たったこれだけの、ほんの数行から、すさまじいイメージのふくらみを感じさせる。ゾクゾクしてくる。宮沢賢治さんは、岩手の農村から星雲までも、言葉を駆って飛翔できるお方だ。
彼のことばはぼくをいろいろな時空に連れていく。
・・・今日はここまで。
いつになるかわからいけど次回は、自分がなぜそれらの人、作品を好きなのか。そこについてざっと簡単に言葉にしてみようとおもう。こんなことする意味もよくわからないけど、書きたいから書いてみる。
とりあえず本だけ、Amazonのリンクを貼っておこっと。
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